翔北の職員用の食堂が一斉に混むことはほとんどない。
その翔北の食堂が今日はなぜか少しざわついている。

「ねぇ。あんたさ、ちょっと……、自覚あるの?」
「何がだ」

一人で食堂の丸テーブルに陣取っている藍沢の傍のテーブルから緋山がひらひらと手を振った。
お腹が空いている、といっても藍沢の目の前にはサンドイッチとサラダ、緋山の目の前にはサラダボウルといつものようにサプリのケースが置いてある。

食堂の中の視線の多くがちらちらと藍沢をうかがっていて、それどころか救命にいる看護師たちもついさっきまでは同じだったのだから、いくら何でも少しは意識していてもおかしくはない。
まるで周囲を代表するような緋山の言葉に藍沢はわずかに眉をしかめた。珍しくもその目の前では白石が黙々とピラフを口に運んでいる。

「何がって、本気で言ってんの?」

あんたねぇ、と思わずつぶやいたものの、それ以上何を言うわけでもないのは、目の前の白石が一言も口を開かないからだ。
だが、そんな時こそ、普段はほとんど話さないのに藍沢は首を傾けて緋山のほうへを目を向ける。

「なんだ」
「……別に?」

目の前の白石がじろりと睨んだのを見ながら、水のペットボトルに手を伸ばす。白石が睨んだくらいでひるむ緋山ではないが、なんとも思わないわけでもない。

勢いよく白石が手にしていたスプーンを置いた。まだ皿の全部を食べ終えていないのに、無言で立ち上がって白石が背を向けて離れていくのと入れ替わるように藤川が遅れて姿を見せた。

「なぁなぁ。俺さ、聞いちゃったんだけど」

トレイを置くよりも先に口を開くのが藤川である。藍沢と緋山がいるテーブルの間に立って、どちらに座ろうかと迷いながらも二人の顔を眺めていると、藍沢が席を立った。

「あっ、ちょ、おい!」

藤川が騒ぎ出す前に、藍沢はさっさと背を向けて歩いていく。呆気にとられた藤川がその後ろ姿を見送りながら、なんだよ、と呟いた。一人残された緋山は片手をあげて矛先が自分に向く前に遅れて席を立つ。

「無駄、無駄。あれがしゃべるわけないじゃん」
「え、何。ちょ、俺にも詳しく聞かせてよ」
「だめ、もう時間ない」

藤川が食いついたが、緋山は笑うだけ笑ってさっさとその場から逃げ出した。一人残された藤川がなんだよ、とぼやく
藤川は午前中、外来のほうへと回っていたからその場にいなかったのだが、騒ぎの元は午前中のそれも比較的落ち着いた時間の出来事だった。

救急の電話が鳴って、ヘリ要請ではなく救急車の到着を告げた。

「何、ヘリじゃないの?」

髪をヘアクリップで止めながら姿を見せた緋山にボードを書いていた白石が振り返った。

「うん。腹痛を訴えてるって。もうすぐ白車つく」
「腹痛?……女性だよね」

白石が立てたボードに書かれた患者情報を見てわずかに顔を曇らせた緋山は、近くにいた看護師に念のための準備を頼んだ。

女性の場合は妊娠していることも考えられる。そうでないに越したことはないが、万が一の時に間に合わないことにはなりたくない。到着します、という看護師の声と共に横峯と灰谷がストレッチャーを押して姿を見せた。

「うあぁぁぁぁ。いた~い!!」

押さえられてもそれを振り払う勢いで暴れている様子に、緋山と白石は顔を見合わせて動き出す。ストレッチャーの頭のほうに腕を組んで立っていた藍沢も流れるように動き出した。

「……?」

掛け声をかけてストレッチャーから移動させた女性患者を見た藍沢が一瞬、微妙な顔を見せた。

「田中さーん、田中律さん?痛い場所はどこですかー?」

エコーを持った緋山の声を聴きながら、藍沢は顔を振って白石が書いたボードを見る。腹痛というだけに体を丸めようとするのを何とか押さえて腹部にあてようとする。

「う……、あっ」

探るように少し押し付けたエコーにうめいた女性の肩を押さえて頭側に立った藍沢が視界に入ったのか、一瞬、目を見開いた。

「ちょ……、あっ……つぅ」
「服、のけますねー」
「いや、ちょっと待って……っ」

女性が身に着けていた服をたくし上げようとした看護師の手を律が払いのけた。

「なんであんた……っ、いるのに」

初療室にいた誰かの知り合いか、と皆が周りを見回した時、思いがけない人が口を開いた。

「大丈夫だ。どうせ全部知ってる」
「……っ!」

律も絶句したがその場にいた全員が言葉に詰まる。たが、いち早く立て直した緋山がエコーの画面に見入る。

「……ばっ、なんで、あんたはそういうこと……っ」

息をつめて切れ切れに息を吐きながら、文句を口にした律の腰のあたりを緋山は押さえた。

「黙って。すぐ終わります」
「う……っ」

白石と目を合わせて頷くと、向かい側で立っていた白石が振り返って灰谷に指示を出す。

「田中さん、このままCT撮影に行きますね」

指先をクリップで挟みながら移動を開始した後の初療室は、微妙な空気に包まれた。

何とも言えない視線が藍沢に集まる。

「……なんだ」

眼だけが自分に向いた視線を追って、手袋を外した藍沢にその場にいた女性陣全員が視線を逸らす。

CTへの移動に付き添った緋山が初療室をでた後にぼそりと呟いた一言がその場のすべてを表している。

「藍沢、どんだけデリカシーないの」

付き添っていた看護師と横峯がふっと小さく笑った。

 

黙々と自分のデスクでボールペンを手にした白石がいつまでもこつこつとレポートに向かってノックし続けていた。

一度、医局に顔を出した緋山もさっさと出て行ったきり、一人だ。

「……っ」

がっと強く打ってから、ペンを机に放り投げた。

何を気にしてるの。

我ながら、情けないくらいだがこの胸のもやもやの始末がどうにもできないでいる。
十年一緒に働いてきてもお互いのプライベートはそれほど知ってるわけではない。緋山とは女同士、話をすることもあるがそれも言うほど踏み込んではいない。

一番話題になるのは夫婦そろった藤川と冴島のところだが、それも友人以上の繋がりがあるからこそ、学生同士のような友人関係とは少し違う。
いや、もっと言えば、パートナーの話などほとんどしたことがない。

かくいう白石だって、学生時代にはそれなりにあったが、もう何年そんな話題がないだろうと自分でも思わず指を折りそうになる。

そりゃあ、藍沢先生にだってそういう話の一つや二つあるとは思うけど。

「そうよ。緋山先生の言う通り、女性に対してデリカシーがないのよ。藍沢先生は」

散々悶々とした挙句に、誰もいないからと口からでた瞬間にまるで黒田が目を見開いたような顔の藍沢がそこにいた。

「えっ?!……えぇっ!」

飛び上がるほど驚いた白石の前に藍沢がファイルを置く。

「……悪かったな。デリカシーがなくて」
「なっ……、なんでいるのっ」
「それを持ってきたからな」

すました顔の藍沢に気まずさを覚えて、立ち去ってくれるのを待っていたが今日はなぜかそのまま動かない。足元を見ていた白石は動かない足に顔を上げた。

「……何」
「それはこっちの台詞だ」
「え……」
「デリカシーだの、なんなんだ」

思いがけない藍沢の言葉につい目が丸くなる。いくら鈍いと言われる白石でも今日のことは思わず口を出したくなった。

「え、藍沢先生。それ、本気で言ってるの?」
「ああ」
「あの……、今日の田中律さん?知り合いだったみたいね」

あの場にいた誰もが同じことを想像しただろうが、知り合い、といったのは何となくほかの表現をするにはためらいがあったからだ。
「ああ」
「その、ね?知り合いとはいえ、相手は女性だから色々……」
「何言ってる。俺たちは医者だろ」
「そうだけど!そうなんだけど!」

結局、律はCTの結果尿管結石とわかり、点滴と痛み止めの処方で様子を見ることになった。痛みは強かったようだが石のサイズと腎臓の状態から見て手術をするという選択肢にはならなかった。

「女性の場合、いくら私たちが医者だって言っても相手が知り合いだと……」
「今更……」
「だからね、それよ。知り合いだからこそ、落ち着かせるための一言だけでよかったんじゃないかな」

藍沢がよくやる、爪をはじく癖を出しながらも、いつもと違って指先を見ずに白石の顔をまっすぐに見つめたままだ。

「……知ってることに変わりはないだろう」
「そう……かもしれないけど……。あそこでそれを言ったら」
「気になるか」
「そりゃ……。え?てか、私じゃなくて。……え?」

気になるか?

誰が?
何を?

一瞬、何も考えずに自分の頭の中を先に口に出してから、疑問符が続く。
それまでまっすぐ藍沢を見返していた目が急に彷徨って、言われたことの意味を探してしまう。

さっきは離れて行ってほしかったのに、今度は何を言ったのか聞きたいのに、藍沢は踵を返してさっさと出て行ってしまった。

「……え?どういう……」

もう一度、一人口に出したものの、頭の中では一つの大きな答えと、あり合えないと否定する、代わりの答えで溢れそうになる。

そして、白石は結局もう一度呟いた。

「……誰が気になるって?」

その答えは、なかなか遠い場所にありそうだった。

「仕事、無理したんじゃないのか」
「……仕方ないでしょ」
「体を壊してまでやる仕事なのかって言ってるんだ。お前は昔から……」
「昔からほんっと変わんない。言葉多くないのに」

痛み止めのあと今日だけ様子を見ることになった律の様子を見に来た藍沢を顔を背けて遮った。

その様子を見た藍沢は手を止めて律の顔を見る。

「……悪い」
「本当に悪いなんて思ってないでしょ。いつもそうだった。当たり前だろうって正しいこと言うけど……。お医者さんだってそうでしょ?自分の体壊してまでする仕事じゃないのかもしれない。でも、今、その仕事をすることで居場所があったり、生活ができたりするんじゃないの。どんなに文句言おうが辛かろうが、無理したり頑張ったりするのは」

勢いに任せた律の言葉を聞きながら、藍沢黙ってその横顔を見て思う。
であったのは今よりももっと、焦燥感と意地で凝り固まっていたころだった。普通の学生で、ごく普通にアルバイトをしていた律と出会って、なんとなく付き合うことになって。

それなりに藍沢からすれば大事にしたつもりだった。

でも今思えば、自分の都合が悪ければひと月くらいは平気で会わなかったし、就職した後、新人で疲れ切っている律にいらいらしたりもした。

「……何?」

黙っている藍沢がそこにずっといて、なんの反応もしないことに苛立ったのか、律が振り返る。

とがった視線がふいに柔らかくなった。

「もう……休みたいから」
「わかった」

ぎゅっと拳を握り締めて藍沢が病室を出る。
ゆるゆると引き戸が閉まっていく音を聞きながら廊下にでたところで、立っていた白石と目があう。

いたのか、というのと、聞かれたことに何とも言えない気分で視線を逸らす。

「……あとは私が様子をみるから」
「……すまない」

きゅっと口元を引き結んだ白石が頷くと、藍沢の肩に手を置いた。一瞬、華奢な手が触れた肩を自分の手で押さえる。

誰が何を気にしているのか。

ノックの音のあと、引き戸を開けて入っていく白石を振り替えった藍沢はぽつりと呟く。

「気にしてるのは、俺か……」

きゅっと足元が鳴って、藍沢は歩きだした。

そんな藍沢の独り言は部屋に入った白石の耳には聞こえていない。うずくまっている律の傍にそっと近づく。

「痛み、治まりました?」

白石の声に丸まっていた律が顔を上げた。

「あ……、はい。今は。さっき少し背中が圧迫されるような気がしたんですけど」

頷いた白石は頷いて、傍に置いてあるクリップボードを見る。微熱が出ているのも確認したが、痛み止めが効いている時間だから様子をみるくらいしかできない。
もっと状態が悪くなれば別にしても。

「……すみません。あの、運ばれた時」
「ああ……。いえ。こちらこそ、デリカシーがなくて……」

女同士、苦笑いを浮かべるとベッドの上で膝を抱えた律が、控えめに口を開いた。

「先生?先生たちは、ちょっと休みたいなって時に患者さんがきたらやっぱりちょっと無理しても診察したりするでしょう?」
「……しますね」
「私も同じ。私ね、職場でこう……、担当と担当の橋渡しみたいなポジションなんですよ。打ち合わせも多いし。お手洗い行きたいなーって思っても、二時間とかざらで……。だから、ちょっと前から膀胱炎みたいな感じだったんですよ」

懺悔なのか、寂しそうな感じの律に、白石は傍にあった丸椅子を引き寄せる。あいていた二人部屋で、律しかいないから仕切るカーテンも引いていない状態だ。

そこに腰を下ろして、律と目線の高さを合わせる。藍沢にはデリカシーがないと言ったが、律には不思議と、ただ、女同士の感覚しかない。

「膀胱炎は女性はなりやすいので気をつけないと」
「そういいますよね。でも、知識として知ってはいるんですけど、全然身近じゃなかった。膀胱炎も、軽いなーって勝手に考えて、市販の薬ですぐ治るかなっておもってました」
「それもわかります。わかりますけど……」
「素人の勝手な考えじゃなくて、お医者さんに診てもらった方がいいのはわかってるんですけどね。だけどやっぱり……」

今は、こうして仕事が忙しいからという患者も少なくはない。
そして無理をして体を壊しては元も子もないとは思う。でも、無理をしてしまう気持ちもよくわかるからこそ、医者にいえることなど限られているのだと思う。

「藍沢先生は、田中さんのことを心配したんです」
「……そうですね。昔だったら私が言い返して、あいつが同じように言い返して、最後は、俺ならそんなことはしないって言われて終わりだったけど」

変わったんですねぇ。

しみじみ呟いた律は、少しだけ寂しそうな顔で笑った。

その笑顔にどんな意味があるのか、勘繰りたいような触れたくないような。
白石には律に何を言えばいいのかわからないまま、それでも医者として、言えることを言うしかない。

女性は男性と比べて割合は少ないが、繰り返すこともあること。
それを話して、今はとにかくゆっくり休むことを告げると、静かに立ち上がって、病室を出る。

薄暗い廊下だからなのかもしれないが、正解のない現実はいつも苦しい。

男も女も関係なく生きづらい世の中だから、居場所を求めたり、今、目の前にあることを優先したくなるのもよくわかる。

そんな時に、誰かと寄り添いたいと願う気持ちは、どんなに強くても、どんな仕事をしていても、あり得ることだ。
仲間であれ、家族であれ、恋人であれ、友人であれ。

そして、時折、こういう体から出るサインを受け取って、生かすも殺すも、その人次第だ。そこに、ほんの少しだけ、藍沢は手助けをしたかったのかもしれない。

律の知る、藍沢は知らなくても、白石はフェロー時代の藍沢を知っている。
そして、今の藍沢を知っている。

誰よりも腕はいいくせに、人と関わることに不器用な人だ。

ふいに、白石は二年前の雨の日を思い出した。

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