「はぁ?わかるわけないでしょ?」

苛立った声が響いて、びくっと周りにいたスタッフたちが顔を見合わせた。
緋山がいる周産期医療センターと翔北は、互いに医者の行き来がある程度には連携がある。医局長になった緋山が、翔北にきているのは講習会の打ち合わせのためだ。

舌打ちして電話を切った緋山が白石の傍に戻ってくる。

「なあに?相変わらずね」
「だってさ、帰るのが何時頃かってわかるわけないでしょ?何年医者相手にしてると……」

途中まで言いかけた緋山が再び舌打ちして黙り込んだ。
周りの目を気にしたわけではないだろうが、昔のようにあたりかまわず怒鳴り散らすのはやめたらしい。

くすっと笑った白石は、再びペンを走らせる。

「今日は七夕でしょ?だからじゃない?」
「え?あ……。何よ、じゃあ、そういえばいいじゃない……」

後半の独り言は聞かないふりをしておくのは付き合いの長さゆえだ。

「それで、話し戻していい?」
「ごめん。ドキュメントはこっちで用意する。質疑応答は最後にまとめてでいいよね」
「そうね。だいたい……十分くらい?」

あちこちから研修に来る医師に現場で教えられることだけではなく、体系だったレクチャーをする試みの一つとして開催する予定だ。

「んじゃ、資料できたら送って。こっちもアジェンダ作ったら送る」
「わかった」

症例をまとめる以外にも、こうして医者には資料をまとめるという仕事が山積みなのだ。

「さ。帰った帰った」
「何よ、急に」
「あのね。こういう日くらいまっすぐに、早く帰ってあげて。緒方さん待ってるんでしょ?」

一瞬、目を剥いた緋山は何かを言いかけて黙る。そして、しばらく黙った後、小さく呟いた。

「……ありがと」
「素直になったねぇ?あの緋山先生が」
「あの、って何よ、あのって」
「緒方さんとうまくいってるんだなぁっておもっただけー」

白石の冷やかしにかみつきそうな顔を見せたが、離れたところからちらりと視線を向けていた名取と目が合って、開きかけた口を閉じた。
緋山にしてはだいぶ丁寧に、手帳を鞄に突っ込んだ。

「じゃあ、ね」
「じゃあね」

ひらりと手を振って、あっさりと離れていく。
緋山が帰っていった後、名取が近づいてきた。

「帰ったんですね」
「え?」
「緋山先生」

今のうちにとそのままアジェンダをまとめていた白石は、初めて目を上げた。
ごく自然にふるまっている名取が、そういえば、緋山がいる間は近づいてこなかったなと思い出す。

「話しかければよかったのに」
「別に。話すことないですから」
「……なんだっていいのよ。お久しぶりですね、とか、もう七月ですねーとか」

不器用だなぁ。

人のことを言えるような筋合いではない。だから、余計なことは言わずに白石は手元に視線を戻す。

「……七夕」
「え?」
「七夕ですね」

ポツリとそれだけを言って、名取は背を向けて歩いていく。

何もかもが思うようになるとは限らない。
それは仕方のない事だ。

あえて突っ込んで聞いてはいないが、名取の気持ちは純度を増すことはあっても、薄れたりはしないのかもしれない。

「不器用は……、人のこと言えない、か」

今日は仕事を切り上げて、なんて思いもしなかった自分にため息をついた。

七夕だから、なんて言えるわけもない。

自分で自分のことを小さく笑った白石は軽く頭を振って、気持ちを切り替えた。

「新海」
「ん?」
「今日は何か用事があるか?」

同僚とはいえ、人のプライベートをかまうような藍沢ではない。
驚いた新海が顔を向けると、淡々といつも通り人の顔を見ることもない藍沢だが、そういえばついさっき時計を眺めていたなと思い出す。

「用事ってほどじゃないけど?なにかあるのか?」
「いや。ただ聞いただけだ」
「ただ聞いただけって……。お前らしくないだろ」

苦笑いを浮かべた新海に背を向けた藍沢はふと足を止めた。

「……俺らしくないか」

聞き返すなんて、それこそ藍沢らしくない。

そう言いかけて、新海はもう一度時計を見た。

「30分したら戻ってくる。そうしたら先に上がっていいよ。今日は何かあっても俺が診る」
「……助かる」
「年に一度だからな」

ふらりと姿を消した新海がどこに向かったのかはわからないが病院のどこかにいったのは確かである。30分という時間で行って戻ってくるなら。

小さく笑った藍沢は残りの仕事を手早く片付けにかかった。

病院だからということはないだろうが、病院のあちこちにある。短冊に願いを書く気にはならないが、毎年の願いは少しずつ変わってきた。
今年は、少し前から考えていることがある。

だから、らしくないといわれても、新海だけでなく普段は連絡を取らない相手にも頼みごとをしていた。

その頼みごとを聞いた横峯は携帯の画面を見て、にこっと笑った後、ポケットにしまい込んでからよし、と気合を入れた。

「白石先生?」
「何」

横峯に呼び止められて振り返った白石に、すっと両手が伸びてきた。

「今日は早く帰らなくていいんですか?」
「えっ?」
「晩御飯は……、そうめん作るといいらしいですよ」

そういって笑った横峯は白石の手から抱えていたファイルを強引に引きとった。
まったく理解ができていない白石の肩に手をおいて、くるりと向きを変えさせるとその背中を押す。

「だから」

今日は早く帰ってくださいね。

そういって押し出された白石は、首をひねりながらもどうしても今日残らなければならないこともない。じゃあ、お言葉に甘えて、と帰り支度を済ませて、車に向かった。

「あれ」

いつもの場所と違う場所に止まった自分の車に眉をひそめて近づいてから驚いて声を上げた。

「えっ?なんで?」

その呟きに運転席に座って目を閉じていたその人が顔を上げる。

「お疲れ」
「何しているの?暑くないの?エンジンもかけずに中にいて」

窓を開け放っているとはいえ、七月ともなれば暑さは十分すぎるくらいだ。そう思ってから、いつもと違う場所に止まっていた意味に気付く。
日差しをよけて少しでも日陰で、風が入る場所に止まっていたのだろう。

白石が何かを言う前に手を伸ばした藍沢はエンジンをかけた。
勢いよく吹き出したエアコンの熱風が収まるのを待って、白石の目の前で窓が閉まっていく。

肩をすくめた白石は助手席側に回り込んで車に乗り込んだ。

「どしたの。いつもなら一人で帰るって走って帰ってくるのに」
「たまにはいいだろ」

サイドブレーキを下ろして、滑らかに車は走り出す。

今日、白石が早く上がることはわからなかったはず。
何か用があるときは事前に連絡を取り合うのも自然とできた流れだが、こんな風に約束もしていないのに待っていることはあまりない。
まして、黙って車で待っているなんて、どれくらい待つかわからないだろうにどうしたのかと思ってしまう。

「たまにはって……、暑い中わざわざ待ってるなんて何かあるのかなって思うじゃない」

サンバイザーに引っ掛けていたサングラスを片手でかけた藍沢は、ドアに片肘をおいてハンドルを握る。

「……飯でも食うか」
「え?……うん」
「いや、やっぱり家で何か作る」

はい?

思わず聞き返しそうになる。

藍沢も一人暮らしが長いだけに自炊には慣れている。時には白石が遅いときは一人で食事を作って、用意しておくこともある。

だが、一緒に帰るようなときは自然と白石が食事を作ることが多い。
もともと白石の住んでいた部屋に藍沢が住むようになったという流れのせいだ。

それがわざわざ自分が作る、と宣言するなんてどういう事だろう。

「やっぱり何かあるでしょ?何?」
「何もない」
「だって、いつもそんな事言わないでしょ?なんでもいいから言って。気になるじゃない」

不安に駆られた白石は表情の読めない藍沢の顔を覗き込んだ。

ただまっすぐに前を向いていた藍沢の指が信号で止まった時に無意識に迷いを見せた。

それがどういう意味なのか分からなくて。
ただでさえ不器用なのに、恋愛事はもっと難しくて。

「あの……」

私が何かしたか。

そう聞こうとした白石の手を藍沢が掴んだ。

「何もしてないし、何かしたわけじゃない」

じゃあ、なんなの。

口に出したわけではないのに、それが伝わったらしく、小さく藍沢が笑った。

「疑り深いな」
「それは……、だって、いつもと違うなら何かしたかなって思うじゃないの」
「逆に身に覚えでもあるのか?」
「そんなの……」

自覚なんてあったら今までもだって困ったりしなかったことがどれだけあるだろう。
緋山にも冴島にも、空気が読めないと何度言われたことか。

むぅ、と唇を尖らせた白石の手を離したところで、ちょうど車はマンションの駐車場に止まった。

あっさりと車を降りていく藍沢に続いて白石も車を降りる。ドアロックをかけて並んで歩き出すと、珍しく藍沢が手を差し出した。
立ち止まってからその手に手を重ねた白石と一緒に歩き出す。

やっぱり変だ。

重ねて言うのもしつこい気がして、部屋まで黙って歩いていく。
ドアを開けて中に入って、ソファに鞄を置いたのに手はつないだままだ。

小さくため息をついた藍沢を見上げると、ひどく、言いづらそうに口を開いた。

「俺は、大抵自分勝手で、興味があること以外、どうでもいいと思ってる」

急に何を、と首を傾げた白石のもう片方の手を長い指が捉えた。

「特に、イベントごとには興味がないし、俺には関係がないと思ってるが……、それは俺自身が興味を持てないからで、それ以上の理由があるわけでもない」
「……誰かに、何か言われたの?」
「いや、……そうじゃなくて」

ひどく、歯切れが悪いのに指先だけは優しい。

その時初めて白石はなにか、思っていたことと違うことを藍沢が口にしようとしていると気づいた。

「だから!できるときはやってみることにしただけだ」
「何を……?」
「今まで、病院では飽きるほど一緒にいたし、今だってそれは変わらない。でも、今はプライベートで一緒にいようと思えばいられるならやってみるのも悪くない」

プライベートの時間を一緒に過ごせるように、やってみる。

今日は、その一つという事かと、ようやく理解する。そして、少しずつ不安に曇っていた白石の顔に笑みが浮かんだ。
何度も小さくうなずきながら口を開く。

「そう。わかった。私も、それほどイベントごとでどうこうする方じゃないけど、そう思ってもらえるのは嬉しい、です」

以前は一緒にいたくても離れた場所にいた。
少し近づいても、なかなか一緒にいることもできないまま、今はこうして一緒の家に住んでいても、結局一番長いのは病院で一緒にいる時間だ。

「お前が料理をするとか、きれい好きとか知らなかったしな」
「それを言うなら私だって。ずっと病院の食堂か後は外食かコンビニだと思ってたから料理するなんて知らなかったもの」
「……一緒につくるか」

苦笑いを浮かべて、白石を半歩引き寄せた藍沢の手をほどく。両腕を回して藍沢を抱きしめた白石は、急に恥ずかしくなってすぐに離れた。

「横峯さんに言われたの。今日はそうめんをつくるといいって」
「理由は聞いたのか?」
「……いえ?」

顔を見合わせて互いに吹き出して笑う。

「じゃあ、あとで調べるか」
「ちゃんと作って食べてからね」

不器用でも、ぎこちなくても、時には素直に心のままに一緒にいよう。

いままで約束らしい約束もなかった二人の間に、星に願うような初めての約束ができた日。

掲げた一等星があるからこそ、どんな時も迷わないように。

—end

 

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