脳外のコンサルを終えて新海が処置室を出るところで白石に追いついた。

「白石先生」
「新海先生。ありがとうございました」
「いえ。助かってよかったですね」
「おかげ様です」

ほっと一息というところで白石の顔には笑みが浮かぶ。
今日はフェローたちもよく動いてくれたし、もう日が暮れる。冬は日が落ちるのが早い分、ヘリが飛ばなくなるのも早くなるのだ。

「白石先生、今日は日勤ですか」
「ええ。もう日も落ちますし、ほっとします」
「そうですか。じゃあ、今夜あたり、飯でもどうですか」
「そうで……、えっ?」

さらりと当たり前のように差し込まれた一言にうっかり頷きかけたところで、危うく待ったがかかる。

「あれ?なんか予定あります?」
「え?いや、あの」
「じゃあいいですよね」

白石のようなタイプを押し切るのに慣れた新海の持っていきようにそのまま押し切られそうになった白石の腕をひょいとつかむ手がある。

「白石。お前、今日くらいはまっすぐ帰れ」

淡々とした藍沢の言葉に白石が目を丸くする。反論をする余地もなく新海に向かって盾になるように藍沢は割り込んだ。

「こいつ、しばらくまともに家に帰ってなかったから今日は帰してやって。飯の誘いは日を改めて」
「……あ、ああ。わかりました。じゃあ白石先生、また」

ひらりと手を挙げてから去っていく新海にぎこちなく頭を下げた白石は、ぱっと放り出すように話された腕を見る。まるで自分の腕なのに自分の腕じゃないような気がして、まじまじと眺めてしまう。

「あの」
「さっさと帰れよ」

いうだけ言って同じように去っていく藍沢の腕のポケットを思わずつかんだ。

「何」
「あ、いや、あの、藍沢先生ももう今日は上りじゃないの?」
「ああ」

無意識につかんだ手を離した白石はもう一度、藍沢の腕をつかんだ。

「あの!あのね、家にほとんど帰ってなかったから」

堂々と言い切る白石に、何を言いたいのかと眉間にしわを寄せる。その次を待っていた藍沢を前にして、視線を彷徨わせた白石に小さくため息をついた。

「だから早く帰れば」
「じゃなくて。家にほとんど食べるものないの。だから、もうすぐ終わるならなんか食べない?」
「……ああ」
「じゃあ後で」

頷いて、お互いにそれぞれの仕事を片付けに向かう。
当たり前のように離れてから、白石は胸に手を当てた。

―― は、はぁ……。なんか色々、びっくりした……

思いがけないことと、自分でも無自覚な流れに自分で驚いて。
こうして離れてからようやく我に返る。

らしくない。

―― らしくないけど、みんな変わっていくから……

「藤川先生」
「おうっ」
「これと、これと。あと、フェローたちの面倒もお願いしていい?」

詰め込みすぎだろ。

てっきりそういわれることもあるかなと思っていた白石は、ふいにまじまじと白石の顔を見ている藤川に気づいた。目だけで、何を?と聞いた白石に首を振る。

「ほかにあるのかー?今のうちに言っとけよ」
「……うん。ありがとう」
「さーて。俺ははるかと一緒に夜食でも食うかなー」

手を上にして大きく伸びをした藤川は、いつもの笑顔のままでぺたぺたと柔らかい足音をさせて歩いていく。

小さく首を傾げた白石は、そのまま後を任せて着替えに向かった。

着替えを終えて、特に場所の約束もしていないのに、病院の裏へと歩いていく。職員が車を止めている場所のフェンスに寄りかかっている人影を見て、そこに向かう。

こんな時、足早に急げばいいのか、そっと忍び寄るべきか、迷うところだ。
迷うのに、いつもと変わらないペースで歩いてしまう。

途中から砂利の上を歩きだして、その足音に気づいた影が振り返った。

「ごめん。遅くなって」
「いや」

鍵を開けて白石が運転席のドアを開けると、藍沢も助手席のドアを開けた。揃って乗り込んで、エンジンをかける前に何も話していないことを思い出す。

「ごめん。何」

食べる?

そう、言うはずだった。
だが、藍沢はシートベルトを締めて予約済みの携帯の画面を白石に差し出すと、軽く首を振った。

「帰りは俺が運転していくから。それから別に仕事でも何でもないから謝らなくていい」
「……わかった」

シンプルな、ひどくシンプルなやり取りのあと、エンジンをかけた白石は、隠れ家のような居酒屋に向かった。車を止めて、足を向けたのは何度かみんなで来たこともある店で、小さく席が個室のように区切られているから居酒屋にしてはほかの酔客のざわつきを気にしなくてもいい。

「……ノンアルコールビールと生ビール。あと、サラダ。それから、……お前は?」
「おなかすいてたの?……私は、この生湯葉と」

メニューの中からいくつかを指さして、オーダーすると、お通しと飲み物が運ばれてくる。
もう、いいのかと聞くのもやめた白石は、狭い個室の中の奥と入口間近に陣取った藍沢と向かい合ってグラスを合わせた。

* *

「……少し飲みすぎだろう」
「……」

初めは自分だけ飲むことを控えめにしていた白石は、途中から食べるよりも飲むほうが進みだし、ビールからハイボールになり、レモンサワーになり、今はテーブルの上だ。

料理をどかして突っ伏した白石はさっきからピクリとも動かなくなった。
店員に水を頼んではいたが、そんなものが飲めるかと、残りのレモンサワーを飲んでしまい、今はこの有様だ。

テーブルの上の料理はかろうじて途中まで食べていたから、残りは藍沢が片づける羽目になっている。

「……」

ひとまず時間が決まっているわけでもない。そのうちに起きるだろうと、ノンアルコールビールを飲みながらちびちびと平らげていたが、このままではさすがにまずい。
ほとんどの皿を空にした藍沢は、テーブル越しに手を伸ばした。

「……白石」
「……」

テーブルの上の頭を軽く指先で叩いても動かないのは、そのうち起きるどころか、どうやら熟睡し始めたようだ。
ため息をついた藍沢は、店員を呼んで会計を済ませると、立ち上がって白石の肩を叩いた。

「……ぁぃ」
「行くぞ」

手を掴んで白石を引き起した藍沢は、白石を抱えて店を出た。
白石を車に連れて行った藍沢は、エンジンをかけてゆっくりと車を走らせる。白石の家に向かった藍沢は、白石の家の前で車を止めた。

「……おい、白石」

助手席で眠り込んだ白石を起こそうか迷った挙句、しばらく藍沢は薄暗い車の中でただ、その動かない姿だけを眺めて。

フロントパネルの時計が深夜を回ったのを見てから、藍沢は再びエンジンをかけた。

走り出した車は病院の職員用の駐車場に戻って、ゆっくりと砂利道を進んで車を止める。運転席には月明かりが差し込んでいて、エンジンを切った車の中が冷える前に、藍沢は手を伸ばして、自分のジャケットを白石にかけた。

シートの背もたれに手をついて、少しでも眠りやすいようにとリクライニングを倒す。リアシートに置いてあったひざ掛けをとると、薄いフリースを自分の肩に乗せた。

その夜は、サイレンを鳴らした白車が来ることはなかった。

* *

朝方、寒さに目を覚ました白石は目を開けて、目の前に運転席のシートにもたれた頭を見てぼんやりとしてから目を見開いた。二日酔いだからなのか、瞼が重くてぎしぎしと軋むようだったが、何度も瞬きをするうちに目が慣れてくる。

「……藍沢先生?」

シートベルトをしていないシートの上で白石は小さく呟くと、ゆっくりと周りを見回した。

見慣れた駐車場の一角で、なんでこんなところにと、体を起こす。頭に手を当てながら窓に手をついた白石は顔を寄せて、自分が吐く息に眉をしかめた。

「……お酒くさ」
「……そうだな」

びくっとして振り返ると腕を組んで、藍沢はうつむいたまま目を閉じていた。起きているのかと、見つめていると、形のいい唇が動く。

「勝手に家に入るのもなんだと思って。ここなら、着替えもあるし、必要ならシャワーもあるだろ」
「……起きて、たの」
「まあな」

目を開けた藍沢はドリンクホルダーに置いてあったペットボトルに手を伸ばした。キャップをひねってから白石に差し出す。

「ありがと」
「まだ早いだろ」

そういいながらドアを開けた藍沢は、冷え切った外に出ていく。
藍沢のジャケットを自分が手にしていると気づいた白石はドアを開けて後を追った。

藍沢の背中にジャケットをかけた白石は真っ白な吐く息に思い切り吸い込んでから吐き出す。肺の中まで凍えそうな空気は、体に残る酒気を吹き飛ばしてくれそうだ。

「……風邪、引かないでね。藍沢先生は」

まだ、あなたはこれからたくさんのことをしなければならなくて、忙しいんだから。

すべてを口にすることはせずに、ただ、それだけを思った白石の頭の上に大きなジャケットがかぶせられた。

「お前がいうな」
「あ、ちょっと、ジャケット!」
「……あとで返してくれ」

すたすたと病院へ歩いていく藍沢の姿を見送ってから、白石は車のドアを開ける。ほのかに残る藍沢の整髪料か何かの香りが、冷えた空気に溶けた。

リアシートに置いた鞄に手を伸ばした白石も病院へと歩き出す。

また、一日が始まる。

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