打ち合わせを終えて、帝都を後にした大祐は、敷地を出るまでは全力で笑顔を保っていたが、比嘉がその後ろをついて歩いていくと、ぴたりと足を止めた。

危うくぶつかりそうになった比嘉が足元を見ると確かに一歩、歩道に踏み出している。

「比嘉さん」
「はい。僕は何も知りません。何も言ってません。わかりません」
「比嘉さん!!知って……、わかってて僕に!」

噛みつくように振り返った大祐に次から次へと比嘉が諸手を上げて答えるが、まったく聞く様子がないのも仕方がない。

「わかりました!……わかりましたから、少し落ち着きましょう。空井一尉は今日松島に戻るんですよね?」
「戻るとかそういうことはどうでもいいんです!」
「どうでもよくないです。どうでもよくないですが、お気持ちもわかりますので、いったん広報室に戻りましょう」

比嘉にそう言われてはさすがの大祐もそれ以上、食い下がれずに言いたそうに何度も口を開きかけては黙る、を繰り返しながら広報室まで戻る。

ドアを一歩入った時点でもう一度先ほどのやり取りが巻き戻したように始まった。だが、今度はひとしきり大祐が吼え終わるまで比嘉は黙っている。

「……だから、比嘉さん!聞いてます?!」
「はい。もうよろしいですか?」
「……はい」

窓際で周りを戦闘機の模型に囲まれて。

―― 何やってるんだろう、俺

我に返りそうなところまでやっと戻ってきた大祐に、比嘉は両手を目の前で組んだ。

「まず、あの方はご本人がおっしゃっていた通り、藤原さんといいまして、帝都さんの協力会社の方です」
「それは知ってます。というか、あの場にいたんでわかります」
「……ですね。すごくお仕事はできる方のようですよ。初めの頃の藤枝さんのような方、といいますか。あの当時の藤枝さんを目指してらっしゃるというか」
「はい?!」

どういうことですかっ。

がるる、とワンコなら唸る声が聞こえそうな感じだが、そこは比嘉もあしらいに長けている。

片手をあげてなだめる様に続きを話し始めた。

「藤枝さんのように、女性とのお付き合いがですね。フレンドリーといいますか距離感が近い方らしく、あの距離感は稲葉さんだけではないそうですよ」
「……えっ?!そういう問題ですか?」
「そういう問題です。ですから、空井一尉が心配されることはないと思いますよ?」
「……心配というか……。僕は別に、そういうことじゃなくて」

むぅ、と腕を組んで口元に手を当てた大祐に懸命な比嘉は突っ込まなかったが、要するに嫉妬である。まだまだ、自分もあの距離感でリカの隣にいられないことが多いのに、と思うのもすぐにわかるが、そこを指摘するのは片山くらいだろう。

「でも!でも、比嘉さん、藤原さんのことわかってたんですよね?だから自分に」
「空井一尉。たとえ私が知っていても知らなくても、それは関係ありません。今日、空井一尉がいらっしゃったのは仕事のためでは?」

ぐっと言葉に詰まった大祐は、拳を握りしめた。
返す言葉もない。

それでも、あの藤原の態度はまったくもって面白くなかった。

今日は書類を整えて、内局の許可まで取り付ければ大祐は戻らなければならない。時間とも睨みあいのはずだ。

「……比嘉さん」
「はい」
「書類、作りましょう」

急に身を翻すように大祐は余計なことは一言も口にせず、書類を作り始めた。
一心不乱に作る大祐に協力しながら比嘉は、こっそりとリカにメールを打つ。

『稲葉さん。今日はお仕事かかりますか?空井さんが、連絡をしたそうでしたので早めにおかえりになるとよいかと思います』
『今日はありがとうございました。そうでしたか。連絡ありがとうございます』

小さな秘密というほどでもない些細な、それでも大祐のいなかった2年の間を支えてきたネットワークである。
携帯のメールを閉じて、比嘉は内局への根回しのために広報室を出た。

それから、比嘉の根回しと、松島側にあたる大祐の双方からのタッグでスムーズに話が進んだ。

*  *  *

「……」
「……」
「あの……」

え?なんで?

仕事を早めに終わらせたリカを最寄り駅で出迎えた大祐に目を丸くして出迎えたリカは、とりあえず今日も帰らないと聞いて慌てて迎え入れた。

急いで夕食を用意して、簡単でごめんなさいと言いながら食事を終える。ほとんど会話しないまま時間が過ぎて、今向かい合ってじっと黙り込んでいる大祐に困惑していた。

「大祐さん……?」

目の前に座ってと言われて腰を下ろしたまま、むっつりと黙りこくっている大祐に少しずつリカの眉間にもしわが寄っていく。

「リカさん」
「はい」
「自分、いや僕、思ったんです」
「はい」

ようやく、口を開いた大祐に少し前のめりに身を乗り出したリカに大祐が真剣な顔を向ける。

「リカさんは、元々残念な美女って言われてましたけど、今は残念じゃ無くなったんです!」
「……は……い?」
「だから、もう少し自分がすごくきれいな人だって自覚してほしいなって思ってて」
「あの……、大祐さん何を……」

ようやく口を開いたかと思うと、思わず二度聞きなおしそうなことを言い出した大祐に、なかなか反応できずにいたリカが、眉間のしわを深くしながら疑問を口にする。
だが、そのリカの反応に気づかず、ひどく真剣な顔で大祐はひとり頷いた。

「今日、思ったんですよ。リカさんってやっぱりそこにいてくれるだけで可愛いし、きれいだし、素敵なので、周りにいるだけで男はやっぱり引き寄せられるっていうか」
「ちょ、ちょっと待ってください。色々突っ込みたいところはありますけど、それは置いておくとして。なんで急にそんなことを?それに、そんなこと思うの、大祐さんだけじゃないですか?」
「そんなことはありません」

きっぱりと言い切る大祐に、どうツッコミをすべきか。

というより、無性にひっぱたきたいくらいの苛立ちを覚えながらぐっとそれを堪える。確かに、久しぶりに大祐と一緒に仕事をすることになってそこはかとなく、リカも緊張していたのは確かだが、途中からなんだか機嫌が悪そうに見えた。
それがまさかこんな理由だとは思いもしなかった。

「まさか、……すごく機嫌が悪そうに見えたのはそのせいですか?」
「そうです!もう、あんなに気が気じゃないと思ったのは……。リカさん?聞いてます?」

どーいう理由なの!!

華奢な手をぐっと握りしめたリカが少しだけ目を伏せて小さく呟いた。
それを聞き取れなかった大祐が首を傾げてリカの顔を覗き込むと、キラキラとリカの目が大祐を睨んだ。

「絶対、それ、馬鹿にしてると思ってますけど。それは置いておいて、まず、確認したいんですが、私、そんな風に見えましたか」
「見えましたよ!あの藤原さんって方とすごく近くて、なんかもう……、自分もあんな近い距離にいるなんて滅多にないのに……」
「……え?は?」
「自分も、久しぶりだからこそしっかりと仕事して、一緒に仕事をしてよかったと思ってもらおうと!でも、それどころじゃなくなって、もうなんか……」

片手を振り上げて自分自身にも怒っているらしい大祐に、リカのほうも頭に血がのぼってしまい、口を開けば間違いなく噛みついてしまいそうだ。
それを堪えようと思ったが、伊達にガツガツと言われていたわけではない。

悔しいやら腹が立つやら、とにかく言い返そうと思ったら黙っていられなくなった。

「空井さん、失礼です!仕事ですよ?そんな、そんなことあるわけないじゃないですか。藤原さんは確かに距離感が近い方ですけど、比嘉さんや空井さんたちはお客さんというか、立場が違うんですよ?こちら側の話を普通にべらべら話したりしないでしょう?!」
「わかってますよ!わかってても、あの近さは頭に来たんです!」
「はぁ?!それを言うなら空井さんだって!」

反論されると思っていなかった大祐がわずかにひるんだ。噛みつくようにリカが目の前の大祐に食いつく。

「わかってます?空井さんだって、会えなかった間のこと、何も教えてくれてない!それに、後輩だっていうけど、空井さんがわかってないだけで、空井さんに面倒見てもらったら勘違いする人だっているかもしれないでしょう?!」
「……え?ちょっと待って、リカさん。そこ?!」
「そこ、って……。だって、空井さんこそやっと会えたのにそんなこと、なんで言われなくちゃならないんですか」

口を開いてから心が溢れてしまう。

やっと会えたのに。

あれから、一緒に歩むのだと決めてそのまま結婚したのに。

ぱたぱたっとリカの膝の上に涙が落ちた。

「え」
「私、そんなに隙がありますか」
「あ!違、そうじゃなくて……」

リカの目から大粒の涙がこぼれ落ちたのを、大祐はついまじまじと見つめてしまう。本当につい、うっかりというべきか。

―― だって、すごくきれいで……

そのきれいさがどうしてなのか、という理由までは思い至らない大祐は少し遅れて慌て始めた。

「ごめんっ!ごめ、その、ああ。もう、俺はそんなつもりじゃなくて!ただ、その自分は……、自分……」

悔しいからなのか、意地でも顔を拭わないリカに、ギブアップ、と諸手を上げた大祐は両手を見せておいて、そのままリカの頬に手を伸ばした。指先でリカの頬を流れるものを拭う。

「……ごめん」

口を開けばもっと泣き出してしまう。

だからこそ、口を開かないリカの代わりに大祐は続ける。

「……俺は、ずっと、仕事であんな近い距離にいたことがなかったから少しだけ悔しくて……。リカさんが」

その先を言えなかった大祐にリカは真っすぐ見返した。

 

「仕事の私は空井さんだけが仕事相手じゃありません」
「わかってます。でも、……でも、僕は戦友っていうか」
「……エレメント」
「うん」

リカの頬に添えたままで、向かい合って。
流れていた涙は指先で拭った後もまつ毛に光る。

その滴が瞬きの瞬間に手の上に落ちた。

「なんだか、ずっと時間が止まってて……。僕が知らなかった間だけすっぽり抜け落ちてた気がして、あの頃の稲葉さんと僕が同じくらい、近くにいられたかと思ったらそうじゃなくて。あの頃も別に俺たちだけが仕事相手じゃなかったはずで……。ああもう!俺何言ってるんだ」

だんだん何を言いたいのかわからなくなってきて、リカの顔に添えていた手を離して頭を掻きむしる。
その間に、冷静になったのかきょとんとした顔のリカがそっと手を伸ばして大祐の頭を撫でた。

「大祐さん……。なんか、かわいい」
「……は?!」
「だって……、ずっと会えなかった間も私のこと、好きだったんですか?」
「え?!……あー、その……、いや……ハイ……」

唐突に、聞かれると言葉に詰まる。詰まるのに、答えずにはいられずに、視線を彷徨わせた後に小さく呟く。

ふ、ふふっと小さく笑う声が聞こえてリカの顔を見ると、まだ目は赤いのに口元を押さえて笑い出していた。

「なんか、……私たち」
「うん。なんか」

同じ。

会えなかった時間に。
今の相手の隣に。

嫉妬して、悔しがって、なにもかも独占したくて。

「ふふふ……」
「はは……」

向かい合って笑いあって。
笑っているうちになんだかひどくたわいもない痴話げんかのように思えてきて。

「やばい。俺、こんなに動揺したの久しぶり」
「私も……。なんか、あー、もう馬鹿みたい」
「うん。でも、俺たち、こういう事なかったからいいのかも」
「そう、ですね。だって、付き合ったのって……、ほぼゼロ?」

自然に、膝の上に置いた手を繋いで、リカの手を指でなぞる。

「ゼロっていうか、でも、なんか、稲葉さんもリカさんもずっと知ってる気がして、一緒にいないのが不思議な気がして」
「……私も、きっと空井さんは私のことなんか全然知らないと思うのに、顔見たらなんか……」

ぎゅっと。
胸が締め付けられるような。

そう思うのと同時に、無意識に体が動いて、リカは目の前の大祐の首に腕を回した。

「……え?」
「……うん。大祐さん」
「はい」

向かい合っていたリカが身を乗り出して大祐を抱きしめて、その肩に顔を伏せる。

「リカさん」
「……ん」
「りーかーさん」

―― ああ。これは。

普段、どんな時でもリカを包み込んでいる鎧のようなものの、内側かもしれない。
二人ていても、まだ時々しか顔を見せてはくれない、素顔の。

「りかさーん。このままだと、リカさん疲れちゃうよー?おーい」
「……ん」
「もしもーし」

こうなって、素顔が出てしまうとなかなかいつものリカに戻るに戻れず、それも戸惑いなのだろう。

「よっ、と」

体をひねって、軽くリカを抱き上げてソファの上でリカを抱え上げる。

「ちょ、あの、大祐さん、私おも」
「くないから。ね、リカさん」

きっと、俺たちは、こんな風にお互いのことを何も知らなくて、それでもお互いのことならきっとするわかることもある。

「離れてるから、きっとこんな風に不安にさせたりすることも沢山あるかもしれないけど、俺はこうしてリカさんと一緒にいられるだけで嬉しい」

目の前で目を丸くしているリカの頬が、薄っすら赤くなっていて、それも可愛くて仕方がなくて、大祐は小さくなっているリカを抱きしめる。

「明日、始発で帰らなきゃいけないのに、帰りたくない」
「だ、大祐さん……」
「あー……次会えるのいつかな」
「ちょ、大祐さん!」

リカの部屋着越しの背中の真ん中を、つつっとなぞった大祐に驚いた声が上がる。
でも、そこは大祐も顔を離して、瞬きで頬を撫でられるくらいの距離で問いかけた。

「いや、かな」

疑問形でないのは、きっと、どんな答えでも変わらないからだ。

隣よりももっと、近い距離で。

かぷ。

指先から、指の間。気まぐれに、気まぐれすぎて意地悪な気がする。

「ん……!や、あの、ま……ぁ」

明るくて、恥ずかしくて、何とか抵抗しようとしたリカにくすっと笑う声が聞こえた。
それはますます、リカに羞恥心を与える。

「いやならいやっていっていいのに」
「待って……って、い……」
「聞こえない」

ぬるっと肌を滑る柔らかい感触にぞくっと震えた。

明らかに焦らすようでいて、意地悪だというのはさすがにどうしても一言いいたくなる。

「ずるい、です。どうし……ふぁ……ぅ」
「ずるいかな。でも、本当はもっと抱きたいよ?」

抱きたい。

直接的な言葉にささやかな抵抗を封じられる。
本当は、明るい部屋の中で触れられるのはただでさえも恥ずかしくて仕方がない。

でもそれを言い出すよりも先に甘さに溶けてしまう。

「もう……!」

仕返しの代わりに大祐の鎖骨の上に顔を伏せた。

*     *    *

世の中の男女は恋人同士だったり、ましてや結婚していたら嫉妬なんてしないものなのだろうか。

「ね。そう思いませんか。稲葉さん」
「珠輝からそういうセリフがでてくるとは思ってなかった、と」

ばちばちとキーボードを叩いていたリカが、エンターキーを最後に叩いてから顔をあげた。

「大津君だってそんなつもりじゃないのはわかってるでしょ?」
「わかりませんよ。人の気持ちなんてわかるわけないじゃないですか。超能力じゃあるまいし」

本人はふくれっ面なのだろうが、そんな時でも女から見ても可愛い。かつてのギャルっぽい恰好から少し落ち着いて、若手のOLさん風のファッションに身を包んでいる。

「でもね。飲み会で一緒になった女性なんて、そんなに親しくなくてもその場の空気ってのがあるんだし、普通に話くらいするんじゃない?」
「そりゃすると思いますけど!だけど、家まで送っていく必要あります?!」
「そうかもしれないけども。ね?酔っぱらった女の子を放り出していく人だったほうがよかった?違うでしょ?」

むっとしたまま黙り込んだ珠輝は、リカの顔をまじまじとながめていたはずが、すいっと視線をそらした。

―― あっ……

薄っすらとにじんだ目尻を見て、リカはほんの少し目を見開いた。

「……別に、いいんです。いいけど……」

椅子をスライドさせて、リカは珠輝の隣に立つ。

「飲み、いく?」

頷いた珠輝の頭を撫でて、リカはため息をついた。

「あのねぇ。うちだって何もないわけじゃないのよ?」
「……空井さんがそんなこと」
「……難しいよね」

そして、仕事終わりの馴染みの店、馴染みのカウンター。
女二人。

昔は柚木と一緒に並んで飲んで、今でも時々藤枝と一緒に飲んで。
ここで珠輝と一緒にこんな話をする日が来るとは思っていなかった。

「稲葉さん、あ……。空井さん、何かあったんですか?」
「なにがっていうか……なにもっていうか……。あった、っていうかあるっていうか」
「え?……まさか今?」

返事をするよりも先に、リカからはため息が出た。

本当に空回りのような嫉妬に振り回された直後である。

誰にでも優しい。

そして、想定しないリアクションや言動も、真剣な姿も思えばモテないはずがない。リカ自身が一番よくわかっているが、民間で興味がない女性には相手にされなかっただろうが、同僚とくれば話は違う。

面倒見のよい上席としての大祐を想像すれば、やはりリカとしてはため息しか出てこない。
部下が入れ替わって、それでもいい子が来たと嬉しそうなことも気持ちは理解できるが、それとリカの心とは交わらないものだ。

頭ではわかっていても納得し難いことはただでさえ口に出しづらい。

「……そっか。そうですよね。大体、二年も離れていて、いきなり結婚しちゃったんだし、もうちょっと空井さんも気をつかってもいいのに」
「それは、空井さんも色々あっただろうし、話したくないことだってあるだろうし、別に、私は何も……」

慌てて気にはしていないといいかけたリカにくすっと珠輝が笑った。

「稲葉さん可愛いですね。稲葉さんとこんな話をする日が来るなんて不思議」
「……まあね。不本意だけど私もそう思う。珠輝だってそうでしょ?大津くんちに挨拶に行ったんだし」
「そうですけど……。こんな嫉妬とか、縁が無くなると思ってたんだけどなぁ」

目の前のビールグラスの泡が消えるのを眺めながら、思うにままならない想いの行方にため息をつく。

『それで、稲葉さんと和解されたんですか?』
「ええまあ」
『それはよかった。次は、もっと派手に喧嘩してみてください』
「はぁ?!」

電話の向こうの飄々とした声に大祐の声が裏返った。

『……と、鷺坂元室長からの伝言です』
「……っ」

今度は本当に喉が詰まってしまい、ごほごほっと大祐は大きく咳き込んだ。

「なんっ……ごほっ」
『それは、聞くまでもないでしょう?』
「……そう、ですか。ちなみに」
『ん?』

深いため息をついた大祐は恨めしそうな顔でよく晴れた空を仰いだ。

「自分、やっぱり一発くらいは殴られるんですかね?」

今まで胸にあったのは、焦がれるような想いと、どうか幸せでと祈るような想いだけだ。

でも今は、焦りや、舞い上がるような幸福感、胸を締め付けられるような切なさ、そして、胃の裏側が焼けるような苛立ち。

手に負えないくらいの感情に振り回されるのではなく、まるで支配されるような気がする。制御できない感情に支配されるなんて考えたこともなかった。

一発や二発殴られたくらいではこの支配からは逃げられそうにもない。

―― なら、せいぜいうまく付き合うとしますか

暴君の支配のもとで。

 

—end

 

 

 

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