ブーケとブートニア8

後になってから、空井は何度もこの時のことを思いだした。
好きだと想いあっても一緒にいた時間のほとんどは仕事で、付き合った時間がわずかなのに結婚を決めた自分たちの覚悟を問われたのだと思う。

夕食を一緒に食べてから高速道路の割引時間に合わせて、ゆっくりと空井は帰っていった。

「着いたら、必ず電話でもメールでもいいから待ってる」
「必ずメールするから、今日は待たずに早く寝ること」

約束して、と言われてもそんな守れそうにない約束はできないとリカが言う。

「でも、それだと俺が心配」

う、とまた眉間に皺を寄せるリカを着替えて帰り支度を済ませた空井が抱きしめた。
自分は男だし、いくらでも無理がきく。でもリカは、本当はそんなに強くないくせにいつも無理をする。

「お願いだから」
「……わかった。せめて車まで」
「玄関まで」
「……エントランスまで」

素直になってくれるのはとても嬉しいが、こういう攻防は本当は避けたい。
仕方ない、と手を差し出した空井の手を掴んで、リカの方が先に部屋を出る。それに続いて空井も一緒に部屋を出ると、エレベータで下まで降りる。

「今年、暑いみたいね」
「そう?向こうはそうでもないよ」
「そうなんだ。こっちはもう夏みたいに暑い日があるのよね」

また一週間暑いのかなぁ、と呟くリカと手をつないでエレベータを下りた。

「車、どこ?」
「向こうの、コーヒー屋の先のビジネスホテルのところのパーキング」
「……って!結構先じゃない」
「そうでもないよ。安かったんだ」

コーヒーショップはリカのマンションから1ブロックほど先で、その数件先がビジネスホテルである。
自分も知らないうちによくそんなところを見つけたと思う。

すっかり暗くなった通りに出ようとしたリカを空井の手が引き留めた。

「ここまで」
「少しだけ」
「駄目。遅いから。仕事なら仕方ないけど、俺のためには駄目」
「大祐さんのためじゃないもの。私のためだもの」

頬を膨らませたリカに苦笑いを浮かべた空井が、ぽんぽん、と頭を叩いた。

「稲ぴょん、どうしたの」
「やっぱり、ついたって……。メールでいいから待ってます」
「わかった。じゃあ、あとで」

頷いて、今度は静かに笑ったリカの手を離すと、空井はまっすぐ背を向けて歩き出した。
いつも途中で振り返りたい衝動をこらえるのにひどく力を使う。

振り返りたいのに、振り返れば帰るに帰れなくなりそうで。
それでも、大きな通りに出る前に振り返ると、リカがまだそこに立っていた。

そしてリカも。

付き合うようになって、それが幸せで、しかも結婚の準備を進めていることに舞い上がって、だからこうして離れる瞬間が切なかった。

空井の姿が見えなくなってからしばらくして、リカは自分の部屋に戻った。

―― わかってたけど、遠距離って結構しんどい

会えなかった頃に比べたらはるかに幸せなのに、やっぱり欲張りになるのだろうか。
会えている間が幸せだからこそ、離れる時間が辛い。

何度か、会って、一緒に過ごして、じわじわとそれを実感すればするほど別れ際が切なくなる。

空井はいつもさらりと離れていくのに、自分だけいつもこうしてじたばたしていることがますます、自分らしくない気がしてしんどい。
そして、部屋のあちこちに空井がいた痕跡が残っていて、ますます切なかった。

「ああもうっ!違うこと考えよう!」

流しに残った二つのカップを見た瞬間、ぶわっと涙が浮かんできた。指輪を選んでこんなにも幸せなのに、寂しいなんておかしいのに、泣けてくる。

「……やっぱり、一緒にいたいなぁ」

空井が残していった着替えを抱きしめて、リカはソファに横になった。

後になって、リカはあの時、本気で腹が据わった、とぽつりと空井に呟いた。

 

街角グルメの取材は珠輝に任せていたが、大人の遠足や番組の企画もあって時には現場に出ることがある。

「稲葉さん、また阿久津さんに怒られますよ?」

いい加減チーフディレクターになったなら現場はディレクターに任せて自分は管理する方へ回れと阿久津にもさんざん言われてきた。

「いいの!自分で行かないとやっぱりわかんないこともあるもの」

珠輝と一緒に取材に出たリカはその日、都内の某所を遠足の一つに選んでいた。ショッピングビルも多い中で、美術館がいくつかある場所は地下鉄の駅も複数あって、大きな公園も近い。

平日の午後とはいえ、場所によっては休日と変わらないくらいの人出だった。

「よし。さっさと撮っちゃおう」

そういって、坂手がカメラを据えて撮影を始めたばかりだった。

そのあたりでは珍しい感じの、若い男たちが数人、少し離れたところでふざけていた。やんちゃが過ぎそうな様子はその見かけからも薄々察しが付く。
いかにもな恰好をして、ペットボトルを手にしながらふざけている。できれば気づかないでほしいとリカ達が願っていたのは無理もない。

カメラに映りこまないように坂手が気を使いながらカメラを回していくと、しばらくはそれで済んだのだが、坂手と大津はまだしも、リカと珠輝の二人がついていたのではやはり無事にはすまなかった。

「お。なんか撮影やってんじゃん。おねーさん達ぃ。これなんの撮影やってんのぉ」

まずい、とすぐに察した坂手と大津はいつでも移動できるように三脚をたたんでカメラバックと共に移動できるように動き出した。

「帝都テレビの情報番組です」
「へーえ。なに、おねーさん達アナウンサー?あ、それとも今、売出し中かなんかで、こういうのが流行ってマースとかやってんの?」
「いいえ。私たちはディレクターなんでカメラには映りません」

珠輝を大津の方へとさりげなく押しやって、リカも歩きはじめる。それでも話しかけるためにリカ達の周囲を囲み始めた。
坂手が言葉少なに行くぞ、と言って先頭を切って歩いていくが、さりげなくいつでもカメラのスイッチはオンにできるようにしている。なにかあれば、このカメラに収めてやる、というつもりだった。

大津と坂手の間に入った珠輝は、大津のカメラバックを代わりに肩にかけて荷物で自分をさらにガードする。

「もったいないじゃーん。なんでー?でればいいのにねぇ。あ、俺達もとって撮って―」
「すみません、まだ下見なんでちょっと撮影してないんです。ごめんなさい」

極力、丁寧に頭を下げてリカが三人の後ろから歩いていると、リカに焦点を移したらしい。じわじわとリカの傍に距離を縮めはじめた。

―― まずい……。ここで怒鳴ったり何かすれば帝都テレビの名前も出ているだけにまずい

カメラにも帝都テレビのシールが貼ってある。それに帝都テレビを名乗っておけば手を出してこないだろうと思ったのが裏目に出そうだった。

「ちょっとー。何避けてんのー?なぁ!!」

急に声を荒げた男の一人に珠輝がびくっと怯えて振り返る。だが、リカはこのくらいではさすがにビビりはしない。伊達に報道記者だったわけではない。男の怒声には、さすがに迫力があるが、にっこりとリカは笑顔を向けた。

「避けてないですよ。次の下見取材があるのですみませんけど」
「すみませんけど?なによ」

足早に進んだ坂手達は路上の駐車スペースに止めていた取材車に素早く乗り込んだ。珠輝が乗り込んだのを見てから、リカも車に乗り込もうとした。

その肩に下げていたバックを掴むと男の一人がリカの開けた車のドアを思いきり閉めた。

「ちょっとつれないんじゃないの?おねーさん?」
「やめてください!こんなところで何かあったらすぐに警察来ますよ。私たちだって下見とはいえカメラ持ってますから!すぐにあなたたちのこと、カメラに収めて警察に届けますよ!!」

振り切るに振り切れない。
場所が場所で周りにも人が多いだけに、通りすがりの人々も何事かと顔を向け始めている。
駄目だと思ったリカが怒鳴りながら携帯を取り出すと、別の男が手に持っていた2リットルのペットボトルを振り上げた。

「きゃぁぁぁ!」

誰かの悲鳴が聞こえて、リカがはっと身構えた瞬間、ガツンと衝撃が来た。

「稲葉っ!!」

車から慌てて飛び出してきた坂手と、周囲の人たちが携帯を向け始めたのをみて、男たちがさすがにまずいと思ったのか、おい、と言い出して逃げるように走り去っていった。

男たちがいなくなったのを確かめてから、大津に止められていた珠輝が車から飛び出してくる。

「稲葉さん!!」

男の持っていたペットボトルには
中身が半分くらい残っていたのもあって、力任せに振り回されたペットボトルを避けようとして腕を上げたリカはそのままガードレールに向かって叩きつけられた。

ポール状の柵に激突したリカは頭と腕を打ち付けていて、あまりの痛みに目の前がちかちかしてしまう。

「とにかく乗れ!」

坂手と珠輝に支えられて車に乗り込んだリカは、車に乗り込んだ後、痛む頭に手を当てていたが、それを見た珠輝がさらに悲鳴を上げた。

「稲葉さん!これ!」

差し出されたハンカチをみて、受け取ろうとした手が赤く汚れていることに気づいた。

「あ……」
「いいから押さえてて!坂手さん、急いで!病院!」

珠輝の手に強く押さえられたリカは、全身から力を抜いた。

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